子供の頃 着ていた洋服はほとんどが母親の手作りでした。当時は それがイヤで反発していましたが、写真を見てみると客観的にみて どれも似合っている!?どちらかというと地味顔なので、派手な色目や鮮やかな模様が似合わない顔つきなのですが 子供の頃というのは身の程知らずで「お姫様」に憧れるものです。くすんだ色よりキレイなものやフリフリが大好きでしたが、母が作る服はどれも地味・・・それでもよく見るとチロリアンのテープが可愛かったり、襟元の刺繍が嫌味のない可愛さを醸し出したりして、オトナになって見るとそのセンスの良さに「おおっ!」と、思います。
モノをたくさん見ることのない子供の頃は、自分が他の人と違うものを持つことに抵抗や照れを感じるものです。でも、目が肥えてくるとそれがいかにお洒落で粋なことかが分かります。まるで、オトナになってから お漬物の美味しさや生成りの白さが美しく思えるようになるようなもの。
なので、自分の子供が制服を抜いで お友達たちと集まると全員ユニクロみたいな場面に遭遇すると、血が騒ぎます(笑 「他の人と違ったものを着せたい!」というよりは「もっと似合うものを着せてあげたい!」という気持ちでしょうか。そんな自分の気持ちを察した時に、ようやく母親がせっせと洋服を作っていた気持ちがわかったような気がしました(^^ゞ
手仕事をすることは なにも「世界にひとつだけ」の特別なものを作る仕事ではなく、その人に一番似合っているものを用意してあげることなのですよね。奇を衒うことなく 作り手の想いよりも使う人の想いをカタチにすることが「手仕事」のよいところだと思います。
同じ手仕事でも 作り手の想いをなによりも優先しそれをカタチにして世間に表現しようとする手仕事もあります。私は「個性」や「作家性」といった創作活動よりもアノミマス(匿名性)でありながら 手間ひまかけた丁寧な手仕事をするガラス工房でありたいと思うのです。
ランプもそうですし、グラスもそうですが 一つのガラスを最初から最後まで同じ人が作っているものはありません。ビアジョッキなどはグラス部分と持ち手の部分は違う人が作ります。また、ガラスは最後の磨きなど自社内で終わらさす、その作業だけを外注に出したりします。多くの名も無き職人気質を持った人たちが携わって一つのガラスを作ります。
私たちの目指す手仕事は 丁寧につくられた洋服に 最後に使う人に似合うようにワンポイントで刺繍をしたり、受験の時のお弁当に 海苔で「ガンバって!」と貼り付ける作業に似ているかもしれません。洋服もお弁当もそれだけで充分によいモノなのですが、なにかしら伝えたい想いをカタチにすることなのです。
幼稚園の時 持ち物に名前を書いてくるように言われ、まだ文字の読めない子は その子ならではの印をつけたりしなかったでしょうか?女の子だったらお花だったり、男の子だったら動物だったり。お花といってもチューリップもあれば、ひまわりもあり。動物もゾウもあればカブトムシも。それを目印に自分の持ち物を探した記憶はありませんか?
その印は自分のことを一番よく知っている親が考えてくれたものだったりします。人は自分のモノをなにかで区別したいものです。そしてそれはその人だけの”特別なモノ”になります。私たちはそうゆう印をガラスに表現する手仕事をしているのです。